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バグウォッシュ会議について

パグウォッシュ会議の歩み

●第1回会議が開かれたPugwash村のロッジ

1957年、世界各国の22人の科学者がカナダの漁村パグウォッシュ(Pugwash)に集まり、核兵器の危険性、放射線の危害、科学者の社会的責任について真剣な討議を行った。当時は東西冷戦のさなかで、米ソの水爆開発競争が続き、核兵器実験が地上でも大気圏でも相次いでおり、全世界(特に北半球)で大気や雨の中に放射能が観測されていた。

この会議には、アメリカ、カナダ、西ヨーロッパ、オーストラリア、ソ連、東ヨーロッパ、中国、日本(湯川秀樹・朝永振一郎・小川岩雄)の物理学者を中心とした自然科学者たちが参加した。

この会議のきっかけとなったのは、核戦争による人類絶滅の危険性と、戦争以外の手段による国際紛争解決を訴えた1955年のラッセル・アインシュタイン宣言だった。日本の湯川秀樹博士を含む東西の著名な科学者11人が署名したこの宣言は、世界の科学者の討議を呼びかけていた。

●第1回会議記念写真(左端:小川岩雄、左4人目:朝永振一郎) ●ラッセル・アインシュタイン宣言発表記者会見

パグウォッシュでの会議が成功に終わったことから、当面の核兵器の危険性を少しでも減らし、さらには核兵器と戦争の絶滅を目指すために世界の科学者の会議を継続していくことが決定され、パグウォッシュ会議はグループ名ともなった。その後次第に、生物兵器、化学兵器など核兵器以外の大量破壊兵器廃絶や、より広く環境や持続的発展といった科学と社会の諸問題もとり上げるようになった。

これまでに年次大会、ワークショップ、シンポジウム、スタディグループ、など各種の会合が開催され、参加者はのべ1万名を超えた。個人の資格で会議に参加するという伝統は今日まで続いている。

また20年ほど前から参加各国に若手グループが作られ、それぞれが独自の活動を進めるとともに、年次大会などにも参加するようになっている。

パグウオッシュ会議の成果は華々しく語られることが少ないが、実際に戦後結ばれた軍縮・軍備管理条約の背景でこの会議の人的ネットワークや知的貢献が果たした役割は大きかったと評価されており、冷戦が終結した今日においても、研究と社会とのつながりに心を配る科学者の自由な討議の場として、ますますその存在意義は高まっている。1995年、パグウォッシュ会議は「国際政治における核兵器の役割を減じ、核兵器の廃絶を目指す長年にわたる努力」が評価され、当時のジョセフ・ロートブラット会長とともにノーベル平和賞を受賞した。

日本パグウォッシュ会議

日本では1957年の第1回パグウォッシュ会議のあと、同年秋の日本物理学会の分科会において、非公式な報告会が開かれた。ここで朝永振一郎博士が、勉強会を行うことを提案した。朝永博士自らが第2回、第3回会議の会議資料のプリントを作って、配布し、定期的な会合が開始された。これがPugwash Japan(パグウォッシュ会議日本グループないし日本パグウオッシュ会議)の発足である。当初は物理学者が中心であったが、次第に他分野の科学者・研究者にも広がった。

日本パグウオッシュ会議は、1960年代から1980年代まで科学者京都会議として、国内会議4回と、勉強会をしばしばおこなった。1975年と 1989年に、それぞれ京都と東京で、日本グループがホストとなって第25回と第56回の国際パグウォッシュ・シンポジウムが開催され、1995年と 2005年には第45回と第55回のパグウォッシュ年次大会が広島で開かれた。

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